小学校のころ、冗談ではなく勉強が大好きで、テストはいつも100点

わからないものもなく、読書感想文コンクールなんかもクラス代表に毎回選ばれる

嘘みたいなほんとの話

でもスポーツは得意ではなく、足の遅さはクラス1番…

下手したら女の子にすら勝てないんじゃないかってレベル

でも球技はある程度全般できて、中、長距離はかなり早いほうという変わった経歴

そんな自信に満ち溢れた、順風満帆な学生生活の中で

低学年が終わり高学年になったそんなある日

テストでわからない問題に初めて出会った。

よくよく考えてみたらわかるはずの問題だったのだろうが、スラスラ解けていくのが当たり前だった

当時の僕にとっては詰まることが驚きであり衝撃だった。

今考えればわからない問題があることなんて当たり前なんだろうけど

当時の自分にとっては受け入れられない現実として残ってしまった。

「わからない問題があるならわかるようになるために勉強する」

そんな当たり前のことが自分にはできず、

「自分は勉強に向いていないんだ!球技にならいけるんじゃないか」

と間違った考えで、圧倒的に不向きであったスポーツの方に逃げるという選択をした。

元々そんなに才能があるわけでもなく、小学校でやっていた野球にしても

「7番レフト」という野球経験者なら「ああ~…」って言ってしまうようなギリギリ枠

部活でやっていたミニバスもAチームにぎりぎり入れずBチームのキャプテンとまさに微妙

でも試合に出場できていたこともあり、挫折という気分は味わっていなかったなぁ…

勉強に関してはその後、そんなに苦労した記憶もないので、あからさまにそちらの方が向いていたのだと思う。

小学校に上がる前から本を読むことが大好きで、特にシャーロックホームズシリーズなんかにドハマりしていた。

とあるテレビ番組で有名な先生が

「本をたくさん読んだ子供は地頭がよくなる傾向が強い」

のようなニュアンスのことを言っていた記憶があるが、まさに典型だったと思う。

わからないことがあれば自分で調べたりもして、本の延長で、新聞も読むようになっていた。

常用漢字の大概は小学校低学年で読めていたと思う。

だからこそわからないことがあったときにつまずいてしまったことが響いてしまったのかもしれない。

「テストが100点じゃなかった」

その事実は僕にとてつもなく大きな挫折を味合わせた。

家庭の中でも逃げることに慣れていた自分は”わからない”という現実から逃げた。

本来であればその悔しさをばねに次につなげることで人は成長していくのだろうが

当時の自分はその現実を受け止めることができず、恥ずかしいとさえ思っていた。

自信が大きさに比例して、ミスをした時の挫折感は大きくなるものだ。

自分にとってこの挫折は無かったほうが幸せだったと思う。

でも万人にとって同じ答えであるかと聞かれればおそらくNOだろう。

逆に自信が何かが理解できない年齢のうちに、失敗から学ぶことを経験した方が

より大きく、聡明な大人に成長できるのではないかと思う。

自分が親の立場になった今、子供がわからないことに直面した時には

「わからないことがあることは当たり前」と声をかけるよう注意している。

わからないことがあれば勉強してわかるようになればいい

わからないことをわからないままにしておく方がよっぽどもったいない

わからないは怖くない

わからないに気づけること自体、相当ハッピーなことだ

小さいころからわからないにおびえていた自分は、相当なチャンスを逃してきた。

だからこそ小学生のうちは挫折しまくった方がいいと思う。

もちろんそこから立ち上がれるフォローがあってこそではあるが…

3日目はこの辺で…

100日チャレンジまで残り97日…